駄文

或る雨の日


スマートフォンで時間を見ると11時45分。待ち受け画面に写る私とその彼氏はこの世の幸福を集めたみたいな満面の笑みを浮かべているのに、画面を消して黒に写る私の表情は今日の曇天に負けないくらいに最悪。  駅前では私の他にも待ち合わせしている人たちが居たけれど、相手は少し経てばやって来て笑いながら手を振って合流し、楽し気に歩いて行ったのを何度も見た。誰も私のことを気にしていないと分かっていても、くすくす笑っている女の子たちが、まだいるよあの人、なんて笑っているんじゃないかと疑心暗鬼にもなってくる。  約束の時間は10時。45分の遅刻。何度も何度も連絡をするのに繋がらない。初めは移動中だと思った、次には何かあったんじゃないなと心配した、最後に苛々してきた。「まだ来ないの?」「待ってるんだけど」という文章を送りつけ、何度も電話をかける。彼のスマートフォンは私の履歴で埋め尽くされている筈。それなのに連絡ひとつと無い。もう帰ろう。45分も待ってあげたなんて私ってなんて優しいんだろう!決心して足を自宅方面に向けた時に着信音が鳴った。ダブルピースを決めている彼氏の写真が表示されて、さらに苛つき乱暴に右へスワイプした。
「今どこ!?」
相手が何か言う前に怒鳴った、何人かが声に振り返ったけれどすぐに興味を失い視線は逸れて行った。
「何処も何も、家。自宅。つうかそっちこそ何?履歴怖すぎる。ホラーごっこ?」
「自宅!?こっちはずっと待ってるんだけど!」
「はあ?何それ」
こいつ…っ!
「今日約束してたでしょ!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!何?忘れてたの?」
「んー?」
ぼんやりとした返答が返ってきてスマホを握りしめる手に力が篭る。
忘れてた、こいつ絶対に忘れてた。
「今から来い、ダッシュで来い」
「やだよ。怒ってるでしょ」
当たり前だ!
「それに、カズと約束してんだよね。ひと狩り行こうぜ。って」
「はあ!?一彦君とは明日でも明後日でもいいでしょ!」
「無理。イベント今日までだから」
「ちょっ」
言葉を続けようとした私を無視して無情にも電話が切れた。ツーツーツーと電話が切れたことを知らせる電子音に体がわなわなと震えだす。
「そっちが!この日なら時間空いてるって言ったんでしょうが!!」
その板切れに向かって怒鳴った。今度こそ何人かの視線が私に向き、おどろいたと小さく呟く人までいた。
ひとつため息をついて曇天を見上げるとぱらぱらと雨が降って頬に雨粒が落ちてきた。天気予報のアナウンサーが午前中は雲が空を覆いますが、午後になって好転するでしょう。なんてにこやかに言っていたので傘を持ってきていない。スマホで天気予報を見てみると、黒い雲からざあざあと雨が降っていて、週間天気予報も雨マークだらけ。
もう人間の言葉など信じてやるものか。

近くのコンビニで傘を買おうと思っていたのに駅前のくせにコンビニが無い。周辺をぐるぐる回る羽目になり、時間が経った今では地面を親の仇でもあるように雨が激しく打ち付けている。  コンビニなんて探さずそのまま自宅に直帰すれば良かったと肩を落としながらも、雨宿りのために店の軒下に入った。次のデートに着て行こうと嬉々として選んだロング丈のプリーツスカートは水を吸って台無し、降ろしたてのミュールも水に浸ってる。  深くため息をついて黒々とした空を見る。私の心と同じ色。視線を戻すと雨宿りしている私の前を相合傘した人が歩いていた、地面からの跳ね返りも気にしないで楽し気に話しているカップル。男なんてゴリラみたいな顔しているし、女だって花柄のスカートと体系と顔が合わな過ぎておばさんにしか見えないうえ、化粧だって濃すぎ。ブスとブス同士の子供って可哀そう。  荒んだ心で通行人への悪態を並べ立てていると、からんと乾いた音がして振り返る。扉から白髪の混じったおじいさんがひょっこり顔を出している。普通に出て行けばいいのに何あの不審者と顔を顰めた私に視線を向けられてたじろぐ。
「お嬢さん、其処で立っていても濡れるだろう。中に入らないかい」
おじいさんはお店の人だった。ここはどんなお店だったかと視線を向けると、扉の脇に木の看板が立てかけられ古沢古書店と書かれていた、自分とはあまりにも縁遠いそれに私は首を横に振るう。眼鏡をかけた地味で真面目な子が隅っこで黙りながら読んでいるイメージ。  本っていう単語を口にすることも滅多にない。そんな私が古書店なんかに入れるわけがなかった。
「珈琲でも飲もうと思っているのだがひとりでは寂しくてね。お客さんもいないし、この老骨に付き合ってくれないか」
雨は弱まる気配はなくさらに激しく打ち付けて音をかき鳴らしていた、ドラマーがこの激しさに打ち勝とうと思っても難しいくらいに激しい。しばらく軒下からは出られそうにないと判断した私は迷った結果頷いた。
 スカートにしみ込んだ水を絞ってから店内に入ると本の匂いと少し埃っぽい匂いがした。古書店だから当然だけれど棚にも壁一覧も所せましに本ばかりが並んでいる、それでも収まりきらないのか床の上にも古めかしい本が平積みにされていた。廃品回収に出されてもおかしくないような背表紙が黄ばんだようなものまで置いてある。  小さな店内をおじいさんに促されて奥へと進む、とレジ横に置いてあるものを見て目を見張った。カウンターのすぐ後ろに畳が敷かれていてのれんがかかった部屋の奥にまで続いている、多分住居に繋がっているのだろう。でも私が驚いたのはここじゃない、こたつがある。もう夏にも近づくというのにこたつ、今日は暑いとまではいかないけれど、半袖で丁度いいくらいなのに。
「どうにも片付けが面倒でね」
私の視線に気が付いたおじいさんは畳に上がりながら言う、面倒でも夏にこたつを見るほうが余程ストレスになる気がするのだけれど、そうは思ったが私は何も言わずに段差になっている畳のうえに座る。足が濡れてしまっているので上がりこむことはできない。
「珈琲は飲めるかい?」
「砂糖があれば」
砂糖無しの珈琲は何が美味しいのかさっぱり分からない、苦いだけ。
「蜜柑は好きかい?」
「え?えぇ」
思いがけない言葉に曖昧な答えを返してしまった。蜜柑?この時期に?
「蜜柑は蜜柑でも冷凍みかんさ」
顔に疑問符を全面に出していた私に、おじいさんはウィンクを投げてよこそうとしたのか歪に両目を瞑ってみせてからお店の奥へと消えて行った。
「はは」
乾いた笑みが漏れて、この店に入ったことを早くも後悔し始めた。
少ししてお盆の上に珈琲と冷凍蜜柑を乗せて戻ってきた、こたつの上に置くかれた冷んやりとした蜜柑と熱々の珈琲。どう見てもアンマッチ。茶色ばかりのこの空間に橙の蜜柑が加わったところでどうにもぼやけて見える。それよりも一緒に持ってきてくれたタオルのほうが嬉しかった、お礼を言って受け取るとショートカットの女の子が好きだと言われて、美容院でカットしてもらった髪を拭いていく。
 ああ思い出したらまたむかついてきた、美容院に行ったって雨に降られてセットも台無し。またむかついてきた。
 折角出されたのだからと冷凍蜜柑を食べる。口の中が冷たくなり、飲み込んだら体がきんと冷える。この後に珈琲を飲もうなんて思えない。  なんとも言えない顔をしているとおじいさんが、今日は何かあったのかい?と聞いてきた。初対面のおじいさんに話すようなことでもないけれど、この行き場のない気持ちを吐き出せるなら何でもいいと、今日あった事を感情を込めて話し始めた。
 おじいさんは途中で話を止めることなく、うんうんと頷いて聞いてくれた。話し終えてもまだ気持ちは治らない、逆に苛立ちが増してきたような気がする。
 おじいさんは少し考えるそぶりをしてから口を開いた。
「ふむ。お嬢さんこんな話を知っているかい?

或る日の男の話なんだが、その日は今日と同じような曇天の空、男の気持ちもまたどんよりとしていて、電車の向かいに座った娘は下品な顔立ちをしていて男は不快感を覚えた、あろうことかトンネルに差し掛かると窓を開けようとしている。 男は永久に成功しないことを祈るような冷酷な気持ちでいたが無情にも窓は開き、黒い空気が車内に雪崩れ込んできた。男は頭ごなしに叱り窓を閉めさせようと思っていたが、トンネルを抜けた踏み切りの柵の向こうで三人の子供たちが手を挙げ声を上げていてた、娘は子供たちに向かって幾つかの蜜柑を子供たちの上から降らせたんだ。  これを見た男は朗らかな気持ちが湧き上がるのを感じ、退屈な人生を僅かに忘れることが出来たそうだ」

その話を私は無感動に聞いていた。
 確かにその或る男はそれで少し救われたのかもしれない。でも私の目の前にある冷凍蜜柑は茶色の中に埋もれているし、珈琲は砂糖を入れても黒々としている。
「ああ、雨が止んだようだよ」
おじいさんが窓の外を見て、つられて窓の外を覗き込む。
「あ」
雲の切れ間から太陽の光が幾つも差し込んでいた。その光が窓の中にも差し込んで蜜柑を鮮やかな色に染めあげた。氷の解けた水滴に光が反射してきらきらと光っている。
 さっきと同じもののはずなのにとても綺麗なものに見えた。
「また遊びにおいで」
私の表情を見たおじいさんは柔らかに微笑んだ。

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