駄文

鏡の国の 08 あか


ありすの母親が買い物から帰ってきたのは夕焼けが眩しい時間だった。車から荷物を持ち玄関のドアノブに手をかけようとしたところで固まった。ドアノブが真っ赤な液体でべっとりと汚れてる。ありすが絵の具でいたずらでもしたのだろうか、最近のあの子はちょっと変わったところがあるから。鏡に話しかけてなかには自分と同じ名前の子がいるんだと言っていた、ある生徒が教えてくれたと先生に聞かされた。当初でこそ戸惑ったものの鏡を見せてこの子は誰?と何度も聞いたけれど、そのたびに自分が写っているというだけで、鏡のなかに友達がいるなんてことは一言も言わなかった。…いや、今はそれは関係ない。きっとその遊びには飽きて次の遊びを始めたのだろう。ありすの母親は仕方なしにドアノブを握って中に入る、手が赤い液体でべっとりとして気持ちが悪い。点々とその赤は床を汚していた。まったくあの子はなんの遊びをしているというのか。これは怒らなければならない。それを辿っていくことにする、階段を上り首を傾げた。こんな方向に部屋なんてあったかしら?2階には3部屋しかなかったはずなのに。薄暗くて今まで気づかなかったが、そこにはきちんとドアがあった。床におちている赤い液体はその部屋の中に続いていた。両親の知らない部屋を見つけてここで1人でいたずらでもしているのだろう。
「ありす!床に落ちている赤い液体は何?ちゃんとそう…じ、を……」
母親の言葉は最後まで続かなかった。大きな鏡の前に手も足も顔も赤く染まった娘の姿、その隣には赤い液体に濡れた我が家の包丁。その反対側には少女の顔をした生首。部屋は錆びたような臭いが充満していた。
「なに、何なの」
顔から血の気が引き、足が震える、眩暈がする、耳鳴りが煩い。
「おかあさん?体調が悪かったならちゃんと寝てなきゃだめだよ」
ありすは母に気づき、体を気遣う言葉をごく自然と口にする。あまりにもちぐはぐな娘の姿に頭がおかしくなりそうだ。
「手を貸すから部屋にいこう」
血塗れのありすがこちらへと歩いてくる、前身に鳥肌がたった。
「ここでなにをしていたの!?」
近づいて欲しくなくて、一歩後ろに下がって大声を張り上げた。
「めありと鏡のありすと一緒に遊んでたんだよ」
めありという女の子は知っている、ありすの友達。以前家にも遊びに来たことがあった。ショックが大きくてきちんと顔を見れていなかったけれど目を閉じて転がっている首はその少女のものだった。じゃあ、鏡のありすってなんだ。
「鏡のありす…?」
「そこにいるでしょ、あの子が友達ありすだよ、名前が同じで見た目がそっくりだなんてすごいでしょ」
自慢げに話す娘の指の先には大きな鏡。そこには血まみれの娘が写っているだけだった。母親は信じられないという表情でありすを見る。平然と何事もないように話すこの子は誰だ。これはなに。なにかの悪い冗談なのか、目の前にいる娘が人間には思えなくてただひたすら、怖い。
「体調が悪いなら早く休んだほうがいいよ」
血まみれの手をこちらへと伸ばしてくる、その手が触れそうになったとき全身が泡立った。
「触らないで!!」
その手を振り払う。娘の顔を見てはっとする、その顔は傷ついている顔をしていた。その顔がどんどん歪んでいく。
「やっぱりおかあさんも、鏡のありすと仲良くしているあたしがおかしいと思ってるんだ」
ぽろぽろとありすのまろい頬に幾つもの涙が流れていく、ありすの母親は後悔した。ありすが鏡と話していると聞いた時点でどうして病院へと連れて行かなかったのだろう、どうしてその手を振り払ってしまったのだろう。
「ありす」
母親は震える声で娘を呼んだ。
「そうだね」
けれどありすは母親の声など聞いていなかった、誰と話しているのか、ありすはこくりと頷いた。
「おかあさんも鏡の国に連れて行けばいいんだ」
「あり」
ありすは落ちていた、包丁を手に取った。
「落ち着て、落ち着くの。ありす」
何度も声をかけるけれど、ありすは聞いてくれない。わかってるよ、大丈夫だよ。と母親に対して言っているのか、幻聴が聞こえているのか。たとえありすが包丁を持って向かってきたとしても、母親はありすをどかすことなど容易なことだと考えた。あの子の手から包丁を叩き落して、病院へ連れていく、なにせ大人と子供。体格差は歴然。ありすが走って来た、大丈夫。この子をなんとかして普通に戻してあげる。その時、母親は見た。ありすの背後の鏡、ありすの背中が写っているはずのそこに、真っすぐにこちらを見て歪に笑っている女の子の姿を。それが、本当だったのか幻覚だったのか考える間もなく、その一瞬の隙で、母親は娘の包丁に貫かれた。

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