駄文

チョコレイトとプラネタリウム


ざざん ざざん
波が引いては押して、押しては引いているのを横目にあたしは歩く、綺麗でも汚くもない普通の海の筈なのに曇っているから汚く見える、あたしの心が意味もなく荒んでいるから荒れて見える。
ざざん ざざん
大きなヘッドフォンで波の音を遮断して代わりに聞こえてくるのは軽快なJPOP。いつもなら気持ちが弾んでくれる好きな曲なのにたくさんの音が交じり合うのが鬱陶しくてすぐに外した、でもそうしたら聞こえてくる波の音、心が荒んで叫び声を上げて走り出したい衝動。でもそんなことをすれば、大山さんちの娘さんがまた奇行をしているわなんてご近所じゅうに知れ渡る。最悪、最悪。あたしはこの町が好きじゃない。
すれ違う人みんな知り合い、お爺ちゃん、お婆ちゃんばっかで、制服もかわいくない。洋品店も1店舗、おしゃれなものは売っていない、モンペとかほっかむりそんなものばかり。ここは世界の果て。狭くて、小さくて、息苦しい。そんな世界で何もかもが嫌になって、居ても立っても居られなくなった時に決まって行く場所がある。小高い場所にあるドーム状の小さな建物。
海ばっかのこの地で遮る光なんかもないこの地で、何故か存在しているプラネタリウム。正直、夜に外に出て空を見上げたほうが星が綺麗に見える、それくらい寂れている。けれどあたしは何故かそこが落ち着いた。誰が何の目的で作ったのか、どうして今も運営しているのか謎。ひとり階段を上って建物に入ると見慣れたいつもの光景。映し出されていないスクリーン、ぼんやり座席に座るひとりのおじさん、座席を掃除している清掃服のお爺ちゃん。
「こんにちは」
お爺ちゃんに声をかけると金を寄越せと掌を見せてきた。何時ものことなので気にせずに掌に100円硬貨を落とすとお爺ちゃんは何も言わずにプラネタリウムを動かすために動き始めた。プラネタリウムのお爺ちゃんは変わっている、いつも此処にいて人と話しているのを見たことがない、何度も通っているあたしですら会話したことがない。町の人であれば顔を見ればどこの誰だと分かってしまうほどの小さな世界なのに、お爺ちゃんのことは知らない。誰か大人に聞いてみればすぐに素性は分かるのだろうけれど、ここに通っていることを他の人に知られたくなかったし、知らない人が居るという空間があたしは気に入っている。
来るたび座席を変えて座っているのだけれど、今日は気まぐれにおじさんとひとつ座席を置いたところに座った。このおじさんのことは知っている、数か月前に東京から戻って来た出戻り男。奥さんと別れて戻ってきたみたいなの、浮気したらしいわよ、浮気されたらしいわよ、仕事もせずにふらふらして、誰かの声が頭の中でリフレインした。お母さんの声だったような気もする。どでもいい、そんな話。徐々に照明が暗くなりスクリーンに星々が映し出され室内アナウンスが流れはじめた。
「今回は皆さんを冬の夜空にご案内します。冬に星座と聞いて何を思い浮かべますか?有名な星座といえばなんでしょう?そうオリオン座です。オリオン座は冬の大三角形のひとつ…」
ここのプラネタリウムは壊れてしまっているのか、いつ来ても「冬の星座」を映し出す。別に星が好きなわけじゃないのに冬の星座を覚えてしまった。
「おじさんはいつもここに居るのね」
気まぐれに声をかけた。いつもここに座っているサラリーマンふうのおじさん。スーツはしわだらけ、咥えているシガレットチョコ、気怠げな座り方。普通ならこんな怪しい人無視している、ただの気まぐれ。
「君こそ、若いのによく来る」
「プラネタリウムに若いも年寄りもある?」
変な物言いに笑ってしまう。
「プラネタリウムのことじゃない。時間が止まったこの場所にって意味だ」
「なにそれ」
確かにこのプラネタリウムは寂れている。でも時が止まった場所だなんてこのおじさんは詩人か何か?
「おじさんは良いんだよ。もう終わってしまったから」
「は?」
ますます意味がわからない。
「人間を辞めたんだ」
どういうこと?言い回しが抽象的過ぎてあたしにはさっぱり理解できない。
「やめたって何?全身改造してサイボーグにでもなったていうの?」
「おもしろいこというなあ」
おじさんはからからと笑ったけれど、あたしはちっともおもしろくない。
「真っ当な人間ではないという事さ。仕事もなし、家族も居なくなり、何も残ってない。抜け殻さ」
自虐的な笑みを浮かべてシガレットチョコをかみ砕いて飲み込んだ。何もかも諦めきった態度、目に生気などなく、彼の言う言葉通り抜け殻のよう。気分転換に来ているはずがおじさんのせいで胸がむかむかしてきた。
「真っ当な人でなきゃ人間じゃないんなら。この世界は人外だらけよ。あなたは人間辞めたとか言ってるけど、人間以外の何者でもないからね?仕事が何?家族が何?そんなので人生終わるほど世の中優しくない。全部言い訳して逃げてるだけじゃない」
あたしの言葉におじさんは目を丸くしている。
「そんなのごめんだわ。こんな小さな町で小さくなって、何もないって嘆いて」
あたしは鞄のなかに手を突っ込む、学校で友達から貰ったものの甘すぎて好きじゃないピンク色のハート形をした異様に大きなチョコレート、包みを解いておじさんのぽかんとしている口に突っ込んだ。
「まだあなたはここに居て息をして生きてる。チョコレートが甘すぎるって事だって分かる。どうしたって、どうやたって、人間以外の何者でもないのよ」
おじさんがチョコレートを噛みぱきんと折れる。
「君は、すごいな」
チョコレートを飲み込んでから返される言葉に眉を上げる。
「すごくない。この町の人たちがぼけぼけしてるだけ。田舎で満足してる友達。安定した将来?堅実的?全部全部馬鹿みたいよ。あたしはそんなの全部嫌い。日本だって出て行ってやるんだから」
明確な目的なんてないけれど、兎に角ここが嫌だ。こんな狭いところに居たくない。
「君ならできるさ。その意義があればなんでも」
「馬鹿言わないで。あたしじゃなくたって誰だって出来るわ」
プラネタリウムの上演が終わって、星空から無機質な白に変わる。現実に引き戻される感覚。だけれどあたしは堅実的な、安定した、現実なんていらない。ひとり夢の下に立っているのだとしても構わない。鞄を持って立ち上がる、何もかもが嫌になって、居ても立っても居られなくなった時にここへ来た。でももう必要ない、自分がどうしたいのかを知っている。おじさんはそんなあたしを眩しそうに見上げた。
「チョコレート」
声に振り返る。
「ありがとう」
「あたしには甘すぎたわ」
嫌な気分になった時、叫び出したい衝動が襲って、泣きたくなった時、俺はいつもここへと来た。ぺらりとしたスクリーン、同じことしか上映しないプラネタリウムの案内音声。自分はもう人間ではない。仕事も家族も失って、抜け殻同然なのに。腹は当然のように減り、何かあるわけでもなく感情が爆発しかける。
星に興味があるわけじゃないのに、時間が止まったおれと同じくするプラネタリウムは妙に俺を落ち着け、すべての時間が止まった感覚になれた。でももうここへ来ることは無いだろう。彼女は未来へ進みたいと焦れ、狭い世界を壊そうと叫んでいた。俺を人間だと現実に引き摺り下ろした。ならばもう、ここには居られない。ただの人間だと思い出してしまったのだから。学生から貰ったチョコレートを齧ると、目が覚める味がした。

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