駄文

失われた蒼 07 誕生日プレゼント


ドブ海へと入った俺も大野と共に病院へと連れて行かれた。異常はないと言われたが有害物質のなかに飛び込んだということで、大事をとって一泊することになった。
白い光に目を覚ます、冷たいリノリウムの床、真っ白な天井、病院というものはどうにも好きになれない。自室とは違ってきれいさっぱりしすぎているせいなのか、この白い空間が苦手なのかは分からない。再検査の結果は異常なし。ドブ海へと入ったというのに水も飲み込まなかったからか、肌が荒れる程度ですんだ。今だって痒いし赤くなってしまっているけれど、なんてことない、塗り薬を塗れば済むだけの話。大野もきっと大丈夫だろう。そう、思ったのに。大野は死んだ。
内海の話によると腹を食い破られたという。他の被害者に比べれば損傷は少ないというが死に至るには十分過ぎるほどの傷。それに加えて出血の止まらない水中、有害物質。生きて戻ることなど不可能だった。
「そう…か」
息が詰まる、大野が死んだのは俺の責任だ。海に落ちたときにもっと早く引き上げてやれれば、手を離さなければ、大野をひとりで行かせなければ、俺が煙草を吸わなければ。あいつはまだ生きていた。
「内海」
声をかけると内海が静かな視線を向けた。
「これを、店で貰ってきて渡してくれないか」
引き出しの中に入れておいた紙を内海に差し出す、水に濡れた後に乾わかしたけれど、しわは伸ばしきれず、かぴかぴになってしまっている。インクは滲んでしまっていて何が書いてあるのかもう分からない。
「何だこれ」
訝しげな顔をしながらも内海はそれを受け取った。
「……大野が最後に渡してきた。娘の誕生日プレゼントの引換券だそうだ。……内海からユウナちゃんに渡してあげてくれないか」
俺に渡す資格はない。
「それは俺の役目じゃない」
なのに、あろうことか内海はそれを突き返してきた。
「これは、大野が最後にお前に託したものだ。お前が渡すべきだ」
「なん…だよ、それ。俺のせいで大野はっ、俺がもっとちゃんと見ててやれば、そうすれば、あいつは」
これ以上言葉にならなかった、堰を切ったように涙が零れる。誕生日プレゼントを手にしたところで、どんな顔をしてユウナちゃんに渡せばいい?それ以前の問題だ。どんな顔をしてふたりに会えばいい?俺のせいで大野は死んだ。ふたりに会わせる顔なんてない。俺が泣いている間内海は慰めるでもなく、叱るでもなく、ただそこに立っていた。内海なりの優しさなのか、どうすればいいのか戸惑っているのか、俺には分らない。俺の涙が止まったころを見計らい内海は口を開く。
「……海藤、非常に言いにくいのだが、俺がここへ来たのは大野のことを知らせるためだけじゃない」
内海は顔を歪ませる、俺としても内海がここへ来た時点でなんとなく分っていた。単なる見舞いだったのならもっと大勢で来るだろうし、内海がひとりで来たということはそういうことなのだろう。
「あの時、なにがあった」
俺はいちど大きく深呼吸をして、話し始めた。
話し声が聞こえて大野が単独で行動したこと、その後を追ったこと、その後、海から手が出てそれが大野を引きずりこんだこと。全て話し終えるまで内海は静かに聞いていた。目を瞑って聞いているので本当に聞いているのかと思ってしまうところだが、内海は人の話を真剣に聞いているときに目を瞑るクセがある。情景をリアルに描こうとしているのかもしれない。話し終えると内海はゆっくりと目を開き渋い表情をみせた。
「俺はその話を信じてやりたいが、その話を信じるわけにはいかない」
だろうな。海から手が出て中へと引きずり込んだなんて到底信じられない。あの海は人間が入ることの出来ない場所だ、一度入っただけでも病院送りになる。
「捜索隊を出してもらうことは出来ないか?俺はこの目で見た、人魚捜索なんて馬鹿みたいなことが出来ないのはわかってる。だから、何か理由をつけて」
頼む、と最後まで言葉を言い終える前に無理だ。と内海は首を振るう。
「それは無理だ、今は連続殺人が優先的になるしその類似性を持たせると、その話をしなくてはいけなくなる。それだと誰も信じてくれない」
すまない、と内海は顔を伏せた。何も言うことが出来ずに俺は口を噤む、外から車の煩いマフラー音が聞こえた。
大野の式は粛々と行われた、殉職、二階級特進。死んでから特進したって嬉しくもなんともないだろうに。皆が皆正装して並ぶ、普段制服を着崩している俺もきっちりと身を包んでいる。堅苦しいとか言っている場合ではない。大野が入れられた棺の上にぱさぱさと土がかかっていくのを皆が黙って聞いている。そんな中走り出した小さな影。
「止めて!!パパにそんなことしないで!!止めて!!」
スコップを持つ大人に泣いて縋る小さな左手、右手にはしっかりとクマのぬいぐるみを握りしめている。母親が慌てて追いかけて土で汚れるのもかまわずに膝を付いて後ろから抱きしめる。言葉はない、誰も言葉を発さない。そんななか手を止めず無常に土をかける大人。…大野、何時までそこで寝てるんだよ、さっさと起きて笑ってやれよ。お前の大切な家族じゃないか、嫁さんも娘も泣かせてどうするんだよ。
その原因のひとつでもある俺は唇を噛む。ごめん。ごめん。ごめん、助けてやれなくて、ごめん。俺が泣くわけにもいかなくてぎゅっと拳を握り締める。隣の内海は気づいているだろうに顔をこちらに寄越しはしなかった。仕事の同僚たちが帰ってしまった後も俺はひとり墓前に佇む。添えられている花束も、先ほど土の中に埋められたという大野も全てに現実感を感じない。今にもひょっこりと現れるような気がする。
「海藤少佐」
後ろから女性の声が聞こえて振り返る、黒く大きな瞳。同じような漆黒の髪、喪服も黒で全てが黒に染まった、大野の嫁さん。その背には女性が背負うには大きくなった娘。本来なら子供を背負うのは大野の役目だったはずだ、だけれどその大野は今ここにいない。俺は言葉もなくただ頭を下げる、それに応じて大野の嫁さんも小さく頭を下げた。
「……海藤少佐ですね、あの人の最後の想いを繋いでくれたのは」
「え」 「クマのぬいぐるみとメッセージ、少佐でしょう」
...何故分ったのだろう、結局直接渡すことは出来なくて、俺は大野を装って大野の自宅にユウナちゃんの誕生日プレゼントを郵送した。大野がどんなふうに娘に祝いの言葉を向けるのか分らなくて無難に「誕生日おめでとう」と大野の筆跡に似せて書いた。別に俺じゃなくたって内海だって、他の部下だって考えられたはずなのに。
「大野が、きっと誕生日に合わせて送ったんですよ」
「……そう、そうかもしれませんね」
大野でないことを知っていて彼女は微笑んだ、どうしてこの人は笑っていられるのだろう、もっと俺を罵ってくれてもいいのに。この人はきっと俺が一番最後に大野に会った人物だということを知っている、それでいてこの人は俺に笑いかけるのだ。強い人なのだと思う、優しい人なのだと思う。だけれど、今の俺にとってはその優しさが残酷だ。
「今までありがとうございました、あの人の上司があなたでよかった」
なんで、そんなことを言うんですか。俺があいつのことをもっと見ていればこんなことにはならなかったのに。俺が手を離さなければこんなことにはならなかったのに。そんなことを言えたら楽だったのかもしれない。でも言うわけにはいかない、この人に甘えてはいけない。俺はただ一礼した。
俺はそのままの足で実家に向かう。この手は出来れば使いたくはなかったが、内海が頼りに出来ないのなら仕方がない。一度自分の家に戻ってもよかったが、それだとまた来た道を戻ることになる。だったらこのまま行ったほうがいい。着慣れないかっちりとした服装の首元を緩めながら歩く、家は無駄にでかいのでこの町にいればすぐに目が行く、それを目印にして歩けばいいので遠くまで行ったとしても迷って戻ってこられなくなったことがないため、子供の頃やたらと遠くへ遊びに行き夜遅くになってしまい、使用人が俺を探すために駆り出されたという思い出まである。
そんなことは今はどうでもいい。たいていの人ならばここで尻込みをしてしまうだろうと思われる趣味の悪い装飾のされた門の前に来る。こんなのでも実家なのでインターフォンも鳴らすに門をくぐる、今日来ることは言ってはいないが別にいいだろう。重たい玄関を開けてやれば何人かの使用人が驚いて振り返った。
「親父いるか?」
帽子を乱暴に取って、一番近くの使用人に声をかけた。
「あ、はい、自室にいらっしゃいます」
使用人は驚きに目を開いたまま質問に答えた、俺はどうも。と手を振って父親の自室へと向かう。葬儀に参加はしていたがすぐに戻ってきたのだろう。親父の部屋をノックする。
「ああ」
入って良いのか、入ってはいけないのか、そのどちらなのかもつかぬ返事が聞こえて、俺は遠慮なくドアを開いた。俺の姿を認めると人相の悪い顔で書類を眺めていた顔が俺を見て歪み、中途半端に眉を下げた奇妙な表情になった。まあ、そうだな、俺の部下が死んだんだから。
「息子よ。大野のことは、残念だった」
葬儀のときよりも随分と落ち込んだ様子じゃないか。理由は分っているがあえて口にはしない。
「その事件のことだけど。…俺、見たからさ、捜索隊出してくれない?」
「………話を聞こう」
内海に話しても駄目だったのなら、もっと上の人間に掛け合うしかない。俺が知っている中でこの父親以上に適任なものはいない、一言発すれば動くのは確実。俺は内海に話した内容と同じことを説明する。全ての説明が終わると親父は神妙な顔をして俺を見た、あぁ。話す前からなんとなく分かってはいたさ。この人が信じてくれるわけがないって。言葉など発さなくともその顔だけで十二分に分ってしまった。
「お前は疲れているんだ」
言うに事欠いてそれか。もっとマシな言葉はなかったのか。
「俺が言っておこう、しばらく休養をとれ」
仲間を失ってつらいのは俺だけじゃない、俺は現場を目撃してしまったがそれは誰にでもありえる事。それに大野が死んだのは俺の責任だ。それなのに俺だけがのんびりと休んでいるわけにもいかない、町の人達を、大野を殺したあの殺人鬼を野放しにしておくわけにはいかない。
「休養はいい、それよりも別の理由でもいい捜索隊を出して欲しい」
頼むと頭まで下げた。この俺が頭まで下げるとは思わなかったのだろう、驚いた様子を見せたがそれでも親父の答えはNOだった。休息が必要だとの一点張り。―結局いくら粘っても無理だった。俺は仕方なしに実家を出て自宅に向かう。手がかりがあるのに動けないのはつらい、それに休みまで強要されてしまった。くそっ、なんでこうなんだよ!いらいらしながら道端の小石を蹴飛ばす。その様子を咎める人は誰一人だっていなかった。


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