駄文

幸福なものたち 暴食 01


オレンジ色の裸電球の下、生活臭煩いリビングダイニングに、アンドレアスとその妻と息子が、調味料入れなどがごちゃごちゃ置かれた乱雑なテーブルを前に座って、スプーンを動かしていた。 食卓に並ぶのは、シチューとサラダとパン。何処にでもあるものではあるが、アンドレアスは肉が嫌いだった。硬いばかりの筋張った食感は噛んでも噛んでも噛み切れず、結局頃合いを見計らって飲み込むしかないし、なにより匂いが臭い。肉が入っていないのがいいなどと言えば、だったら自分で作れば?と言われるのは目に見えているので黙って食べる。 息子はおいしいと、ばくばくと頬張っているのを見て、あんたも何かいえないの?というプレッシャーを込めた目でこちらを見てくる。
「美味しいよ」
味付けはいいが、肉がまずいなどと言えばあんたの給料が低いせいで安い肉しか買えないのよ。と嫌味たっぷりに言われるのは目に見えているので、嘘でもこう答えると、心が篭ってないと言われた。どうしろと言うんだ。 中流階級の家庭が集まる集合住宅地にアンドレアスは住んでいる。窓から外を見れば似たような家がひしめき合っているのが見えるし、屋根裏部屋からは遠い位置にあるにも関わらず、これ見よがしに立ち並ぶ豪邸を拝むことも出来る、この近辺に住む人たちにとって高級住宅地に住む人々は人外だと呼ぶほどに生活水準が違う、役人仕事と工場勤務では天と地ほどの違いがある。 アンドレアスが務めているのは食肉工場だ、作業環境は最悪。匂いはきつく毎日服に生臭い匂いがしみ込む、社長の息子である年下上司はさらにきつい。仕事もせずにふらふら歩いて、誰かが少しでもへまをするとすぐに飛んできて、悪態を付ける相手を見つけたと喜々として文句をべらべらと喋り立てる、劣悪環境をさらに混沌化させるだけの悪要因でしかない。 そんな食肉工場だが、仕事は肉の塊を梱包するだけの流れ作業、肉にする段階はなく塊になったものしか扱わないし、見たこともない。 あまりにも硬いので、何から出来ているのかと聞いたことがあったが、肉から出来ていると答えられた。どこかの洞窟にでも生えてくるのか、植物のように水をくべて出来るものなのか、アンドレアスを含む一般人には知る由もない。

夕食後少しのんびりした後、日課となっているジョギングへと出かけることにする。妻と息子に行ってきますと声をかけたが、水道の音を響かせながら食器を洗う妻の耳にも、漫画を読んでげらげら笑っている息子の耳にも届くことはなかった。何時ものことなので特に気にすることなく、アンドレアスは外に出た。 昼間はじりじりと日差しが皮膚を貫いて暑くてたまらないが、夜になると気温は下がって夜風が心地よく丁度いい、走る前に軽く準備運動をする、屈伸をして、体側を伸ばて準備運動を終えると、走り出した。 かつての面影がない程、ぶくぶくと肥えた妻の体型を見て、自分も同じものを食べているのだから、健康に気を遣わなければと思いジョギングを始めたが、体重は落ちることなく、腹回りには脂肪がついている。アンドレアスは歳のせいにしているが、彼の走り方は妙だった、走っているというよりも下手なスキップをしながら進んでいる。他人から見れば異様な姿だったが、自身を見ることは出来ないまま風を切る。 夜に外出するものは少なく、オレンジ色の街灯がぽつりぽつりと道を照らし、各家庭の灯りが外に漏れ、家族の笑い声なんかも聞こえてきた。 住宅街を抜けて、10分程度で公園へとたどり着く、公園には奇妙な形をした滑り台が置かれている、耳が大きく鼻が長いなにかがモチーフにされている灰色のそれは、ゾウと呼ばれてアンドレアスが物心ついた時からそこに存在し、昔から親しまれているが、何からこの形が生まれたのか知らない。そのゾウとしばし目を合わせてどうしようかと逡巡する。 何時もならここまで来て自宅へと引き返すのだが、まだ体力に余裕がある。もう少し走ってみようと思いきり、ゾウのいる公園を通り過ぎて走り出した。 公園から走り続けて三差路に出る、夜の時間どの道を通っても騒がしいことはないが、アンドレアスの足は自然と慣れた道へと向かった。住宅がひとつも建っていない閑散としている道、街頭の灯りは付いているが人の気配もなく静まり返っている。それも当然で、アンドレアスが向かった方向は彼の仕事場がある。 防犯灯がぼんやりと光っているだけの工場は、建てられてからかなり時間が経つ古い建物で、真っ白な塗装が所々剥げていて、雨によって爛れたような模様になっていて不気味だった。それに加えて工場のなかに入っていないにも関わらず生臭い匂いが漂ってくる気がしてアンドレアスは顔を顰めた。
「失敗したな」
成人してから幾分と立つ身であっても夜の工場はちょっとした恐怖だった。 どうして毛嫌いしているこんな場所に来てしまったのか、後悔しながらも踵を返す。
「キリキリ歩け!!ぼさっとすんな!」
怒声が聞こえ、驚いて振り返った。 ここには工場しかない、こんな時間に仕事をしているのか?だがアンドレアスが普段仕事をしていて怒声が飛び交ったことなど一度もない、年下上司は怒鳴ったりしない、何時までもねちねちと言い続けられ、見下し続けるだけだ。 よせばいいのに彼は声の方向へ向かった、工場の裏手へ壁伝いに向かい、人影が見えると植わっている生垣に隠れて隠れて覗き込む、上げそうになった悲鳴を寸前で飲み込んだ。 人だ。ぶくぶくと肥った人が街頭の下、鎖に繋がれて一列に歩いて工場の中へと消えていく、鎖の人物は誰もが年老いているように見えた、白髪に深い皺、覚束ない足取り、生気のない目。 その周りには何人か鎖に繋がれていない男たち、右手になにか細長いものを持った者が何人か、クリップボードになにやら書き留めている者がふたり、鎖に繋がれた老人が足を捻って転び、繋がれた人たちはそれを生気のない虚ろな目を向けた。ぞっと鳥肌が立ち、アンドレアスは自分の腕をさすった。
「おい!ジジイ!!こけんじゃねぇよ、後ろがつかえるだろが!」
転んだ老人を介抱することなく、彼の数センチ横に鞭を振り落とし地面を打ち付け、鋭い音がアンドレアスの耳にも届いた。あの細長いものは鞭かと気付く。老人は体を震わせてのろのろと立ち上がった。
「ほら!次だ次!!」
視線を怒鳴る男から鎖に繋がれて歩いている人たちに移す、彼らはコンテナのなかからぞろぞろと出てきている。
「離せ!!!壁の外は神の住まう世界じゃなかったのか!?こんな、こんなことが許されると思っているのか!?」
怒鳴る声が聞こえ、ひとりの男がコンテナから引きずり出さた。アンドレアスよりも年若く、生気のない老人と違い彼は生命力に満ち溢れていた。 がっしりとした体格には遠目でも分かるほどに筋肉がついていて、彼が普段から鍛えていることが伺える。しかし神の住む場所とはなんなのか。 町から遠く離れたところに壁に囲まれた一帯がある。 遥か昔、この国は食糧難に襲われたという、人類が汚染した環境のせいで動物という生き物が居なくなり、野菜作りも困難になった。だが国の偉い人が土壌汚染を取り除き、野菜作りの環境に適した場所を作ることに成功したおかげで食糧難は去った。 その壁に囲まれた場所はファームと呼ばれ、野菜作りが行われていると聞く。 こういう歴史があったということは、常識として学園で教えられる、だが国民は動物という言葉は知っているが、誰しもその動物というものがなんだったのか知らず、食糧難という言葉から食べられるものだったのだろうと推測しているだけに留まっている。
「それはここで降ろすものじゃない。金持ち様直通のものだ」
「おい!!聞いているのか!?」
クリップボードを持っていた男が、喚く男の腕にある焼印を見てコンテナのなかに戻すように指示する、自らの言葉を無視された男は、鎖の音を鳴らして大声を張り上げた。
「びーびーうっせぇな!お前は今から金持ち様の家に買われて、肉の塊になって食われるんだよ」
男を引きずりだした男が、今度は男を押し戻した。 鎖の男の顔から血の気が引き、途端に暴れ出す。
「出せ!!こっから出せ!!俺は帰る!あの村に帰るんだ!」
「家畜如きがうっせぇよ!」
男に向けて鞭が振るわれる、上半身に何も身につけていなかった男性の体にくっきりと鞭の跡が残った。
「馬鹿!商品に傷付けんな。あの家のシェフはケチ付けるから少しでも傷があると直ぐに値切ってくる」
「けど、家畜のくせにでかい口叩くから」
「それ以上ぐだぐだ言ってると、お前の給料から差し引くからな」
「分かったよ、悪かったよ」
喚いている男性には目もくれずにクリップボードの男はコンテナの鍵を閉めた、ここで降ろされた老人らは全員工場の中に吸い込まれしまった。 一部始終を見ていたアンドレアスはコンテナがトラックに繋がれて走り去ってしまってから、生垣のなかから体を起こして呆然と立ち尽くした。 肉というものが何なのかを知ってしまった、いつも食べていたあの筋張って硬く臭い肉は老人で、同じ形をした人間を家畜と呼び、それを食べていた。
「なんだよ…それ」
ひとり呟いて体が震えた。 背中側から見れば、怒りで震えているようにも、悲しみで泣いているようにも見えた。 けれど、でも、彼は笑っていた。目をぎらぎらさせて笑っていた。
「人間だった、俺が食べていたのは人だったんだ!!」
ひとり声が漏れる。
「凄いじゃないか!!仕事では自分より年下の上司にこき使わてて!家では妻や息子に邪険に扱われている、俺が!普通に暮らしていた人間の肉を食らっていたなんて!」
ひとり笑い、興奮で快楽で、体が震えた。

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