駄文

鏡の国の 01 ありす


舗装されていない道をがたごとと車は進んでいく、砂埃が舞い上がり洗車したばかりの車を容赦なく汚していた。後部座席に座る今年小学3年生になったばかりのありすは、お気に入りのまっしろなうさぎのぬいぐるみを抱きしめながら顔を顰めて、窓ガラスに葉っぱが何度も打ち付けるのを睨んでいた。
彼女が不機嫌なのは道が悪いというだけの事ではなく、一家で引っ越しをしに来たせい。母親が洋館に住んでみたいという、かねてからの願いを父親が叶えてしまった。もちろん母親は大喜びで中古の家だというのに大人気なく跳ねて喜んだ、しかし仲の良い友達と引き離されて、新たな学校に通う羽目になったありすとしては全然喜ばしいことではない。引越しが決まってからというものありすの機嫌は最悪。
なにもない樹木ばかりの風景を見ているのも億劫で、ありすは車の座席に寝転がってぎゅぅと目をつむった。これが夢ならいいのに。けれどそんな願いも虚しく、到着した場所は山奥の洋館。
洋館を見た母親のテンションは上がり、すごいすごい!と感嘆の声を漏らしているが、ありすの心はまだ治らない、庭なんてなくても、狭いアパートでも、すぐに友達の家に遊びに行けるあの環境がよかったのに。
のそりと起き上がって車の窓から見た洋館は、お化け屋敷に見えた。
「ありす、今日からここが僕ら家族の住む新しい家だよ」
車を停めて後部座席のドアを開けて父親が言った。
「………」
でもありすは不貞腐れた表情のまま、ぬいぐるみを強く抱きしめて動かない、その様子に父親は困ったように眉を下げた。
「いつまでふてくされているの?大丈夫よ、こっちでもまた新しい友達が出来るわ」
なんでもないことのように言う母親にありすはいらっとする。そんな簡単なものじゃない、それにあの場所の友達が好きだったのに。ありすはふてくされて車の中で丸くなる。
父親は困った表情をしながらも車に積んでいる荷物を降ろし始めた、母親もそれを手伝い、すごく素敵な場所ね!と楽しげに父親に話しかけている、荷物を持って屋敷の中に2人が進んでいってしまうと、ありすは車に1人残されてしまう。
まだ車に荷物が残っているからこっちに戻ってくることは分かっているものの、知らない土地で1人取り残されるというのは少し怖くて、うさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま車から降りる、地面が芝生なためにコンクリートの地面とは少し違いふわふわしている印象を与えた。
ありすはそのまま両親の居る屋敷へと向かった。大きな玄関を潜り抜けると、はじめに目に飛び込んできたのは2階へと続く深紅の絨毯を敷かれた階段。視線を離して、一階の左の部屋へと行くとそこが家族の団欒の場になるらしく、テレビを運び込んだ父親がせっせと設置していた。
その奥は広いキッチンになっていた。大きなオーブンも備え付け、母親はうきうきしながら食器棚の中にお皿を仕舞っている。
「ああ、ありす。来たのね、手伝ってくれない?」
母親がにこにこと笑いながらこちらに振り返ってくる、ありすは手伝う気持ちが起きずに、他も見て回ると言って母親の前から逃げた。
「ふふ、なんだかんだで興味心身なんじゃない」
この家のことが気に入ってくれたのだと思った母親は、鼻歌を口ずさみながら手を進めた。
ありすはとんとんと階段を上がる、上った先は廊下が続いていて3つ部屋がある、このどれかが自分の部屋になるのだろう、ありすはきょろきょろしながらもひとつづつ扉を開けていこうかと考えていた。
「あけて」
ふと声が耳に入ってきた、ありすはびっくりしてきょろきょろと辺りを見回す。母親の声ではない、それよりはもっと幼く、父親ということもありえない。女の子の声。
「あけて」
もう一度声が聞こえてきた、恐怖は感じなかったけれど、声が何処からしているのか分らない。きょろきょろと辺りを見回す。
「あけて」
もう一度聞こえた。
「あ」
3つだと思い込んでいたけれど、もうひとつ扉があった、どうしてさっき気づかなかったのだろう。1度視界に入れてしまうとその扉は強烈な印象を放っていた、扉に十字架が書かれていて扉の淵にはテープが巻かれていてる。どうして一番初めにこの扉が目に入らなかったのか不思議なくらいだ。
「あけて、あけて」
うん、あの扉の奥からだ。ありすはその扉に近づいてドアノブに手をかけるけれど、それは周りに貼り付けられているテープのせいでびくともしない。
「今開けるから待っててね」
扉の向こうに居る見知らぬ少女に声をかけて扉の前でしゃがみこむ、きっとどこかにテープの切れ目があるはず、探すとありすの手の届く範囲にあった。これがもっと上のほうだったならばありすはこの扉を開くことは出来なかっただろう、テープをびりびりと引っ張り剥がすとテープが床に散らばった。
ドアノブに手をかけて押すとぎい軋む音がして、かび臭さが鼻を突いて埃が舞い上がった。
黒いカーテンが締め切られていて中は暗かった、そのなかで存在感を放つものが中心にあった、黒い布に覆われている、その中に隠されているのか見当もつかない。
「ここだよ、あけて」
声はその布の中から聞こえてきていた、ありすは部屋のなかに足を踏み入れて黒い大きな布を引く、するすると床に落ちて埃が舞った。現れたのは鏡、ありすの身長の何倍もの大きさで圧倒される。
その中には自分と同じ顔をした少女が居た。鏡なのだから自分の姿が映っても当然だけれど、これは違うとありすは直感的に思った。
「ありがとう、ありす」
中にいる同じ顔をして、同じ服を着て、同じ声を持った少女がにこやかに声をかけてきた。ありすは驚いて鏡に手を当てる、するするとその中に入っていけることもなく、ただ固い鏡に手を当てただけだった、鏡の中の少女もおなじように手を伸ばしてきて自分達が両手を合わせているような格好になる。
「あなたはだあれ?どうして鏡の中にいるの?」
「あたしの名前はありす、あなたと友達になりたくてここへ呼んだの」
どうしてこの鏡の中に居るのかは教えてくれなかったけれど、友達が居ない場所に来てしまったという不安がありすには巣くっていたために、この言葉はとても嬉しいものだった。どうしてここにいるのかなんて些細な事に思えるくらいに。
「あたしの名前もありすっていうの!嬉しい、あたしも友達が欲しかったの」
初対面でこんなに心を許したことはなかった、相手が同じ顔を持っていたからか、それとも鏡の中に居るということで興味を持ったのか、ありすにはそんなことも気にならなかった。
片付けが終わって、夕飯になる頃にはありすの機嫌は直っているどころか上機嫌だった。母親と父親は新しい家になったために嬉しくなったのだろうと思い、父親はほっと息を吐き、母親は娘も気に入ってくれたと嬉しそうだった。今日の夕飯はありすの好きなシチュー、それに対しても気分が上がった。ジャガイモをふうふうと息を吹きかけて冷ましてから口のなかに居れる、ほくほくして美味しい。
「そういえば、明日から新しい学校に行くことになっているけれど、準備は大丈夫かい?」
父親が和やかに聞いてきた、ありすは1度スプーンを置いて、食事の間も膝の上に抱えたままのうさぎのぬいぐるみを撫でる。
「うん」
「ねえ、ありす。もしかしてそのぬいぐるみも持っていくつもり?」
和やかになったありすの心に影を落とす、これは前の学校でも毎日のように言われた、ありすは学校に行く時でもうさぎのぬいぐるみを放さない、必ず腕に抱いて過ごしているし、授業中にもずっと膝の上にうさぎが乗っかっている。そのせいでクラスの子からバカにされることが多かったが、ありすにとってこのうさぎは安定剤のようなもので、これがないと不安になってしまう。いつからそうだったのかは分らない、けれどありすは物心がついた時からずっとこのうさぎと共にいた。
「……うん」
母親の言葉に小さく頷く、せっかく気分が上昇していたのに、母親の言葉でまた気持ちがしぼんでしまう。また怒られてしまうかもしれない。
「でも、かばんの中に入れておく。だから、大丈夫」
ありすは嘘をついた。
「そう?それならいいけれど……全く、もう小さな子供じゃないんだから、ぬいぐるみはお家に置いておくのが普通よ?」
あんなにシチューが美味しかったのに、さっきのシチューと同じとは思えない味になってしまった。
「まあまあ、せっかく引っ越してきた初日なんだからかりかりするな。ありすもちゃんと鞄の中に入れておくって言っているじゃないか」
ぽんぽんと父親がありすの頭を撫でる、パパは優しいから好き。
「あなたはこの子に甘いのよ。ありす、ちゃんと鞄の中に入れておくのよ」
「うん」
ママは厳しいから少し苦手。心配しているのは自分のことなのか、世間体のことなのかありすには判断しかねるところだ。母親は誰かと比べたがるところがある、ありすは頷いてからパンをちぎって口の中にほおりこんだ。
ありすの部屋は2階の1番奥の部屋になった、鏡の部屋から1番遠い場所。父親と母親はあの部屋の存在に気づいていないらしい。2階の3部屋は、両親の部屋とありすの部屋、残ったひとつは衣裳部屋にしましょうとの母親の提案だった。
鏡の部屋は?とありすは聞きたかったが、あの鏡の中に友達が住んでいるのなら他の人がその部屋を使うのはよくないかもしれない、鏡の中の友達のことも2人には内緒にしよう、秘密の友達なんてわくわくする。
ありすはお風呂でほかほかになった身体をベッドの中に沈めながら嬉しそうに微笑んで、うさぎのぬいぐるみを抱きしめた。明日になったらまた鏡の中の友達、同じ名前をもつ友達と話をしようと思いながら。

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