駄文

死に旅 03


車を走らせてコスモス畑へと到着する。家を出て見知らぬ場所へと車を走らせていたというのに結局は戻ってきてしまった。夕暮れに染まる空の下、畑一面にピンクの花が風に揺れて靡いている。
きれいだ
「きれいだね」
子どもの言葉と自分の想いが重なった。ああ、俺はまだこの光景を美しいと思える心があったのか、ほっとするのと同時に寂しい思いがこみ上げる。この光景を見ているのは俺と、知り合ったばかりの子ども。一番一緒にいたい、君だけがいない。妻はコスモスの好きな女性だった。秋になると決まってお弁当を持って一緒にコスモス畑へと出かけた。 彼女は料理上手な人だった、職場に弁当を持っていくとこぞってうらやましがられた。彼女は綺麗な人だった、あなたにはもったいない人ね、と何人もの人に言われた。彼女はよく笑う人だった、怒りや哀しみといった感情がないわけでもないはずなのに、たといつらくても笑顔であろうとした。彼女は優しい人だった、人が困っていることによく気づき誰であれ手を差しのべた人だった。けれど、彼女は弱い人だった、彼女は酷い人だった。彼女に告げられた病気はよく耳にする単語、不治の病、未だ治療法の見つからない、癌。手術をした、駄目だった、投薬した、駄目だった、苦しみだけが続き、死んでしまうにもかかわらず痛みだけが続く日々。戦いながら、最後に笑って死んでしまう人がいるのも知っている。でも、彼女は受け止められなかった、死という現象を、痛みという現実を。あんなに優しい人だったのにあんなに笑顔の素敵な人だったのに彼女からもれる声は「死にたい」のひとつになってしまった。

痛い、苦しい、もう苦しみたくない、つらい、苦しい、死んでしまいたい、死にたい、死にたい、死にたい、ねぇ、

私を殺して、

彼女の辛さが痛かった、だから彼女を終わらせた。…違う。そんな彼女を見たくなかっただけだ。あんなにも綺麗だったひと、あんなにも優しかったひと、そんな彼女が、毎日毎日同じ言葉を繰り返していく姿を自分が見ていたくなかっただけだ。

だから、終わらせた

だから、殺した

自分の、手で

「―っ」
ぼろぼろと涙が零れる。動物園に行った時子どもはあんなにもとつとつとしていたのに、俺が泣くのか。
「おじさん、」
子どもが何かを言おうと口を開く、けれどそれは再び閉じられてしまった。代わりに子どもはぎゅっと俺の手を握ってきた。ほんの少しの時間しか一緒にいないのに痛みで繋がっていた。子どもに手を握られながらぼろぼろと泣いている大人、はたから見たら滑稽だ。でも涙が止まらなかった。そんな大人を子どもは辛抱強く隣に立っていた。涙が漸く枯れた時目の前で広がるコスモス畑はただ美しくそこにあった。ふと気になって隣を見る、子どもの頬にも涙の跡が幾つもある。
「だいじょうぶ、もう、へいき、一緒に行こう」
此方を見上げた子どもの痛烈な表情、俺はいい、でもこの子どもになんの罪があるというのだろう、この子は一緒に連れては逝けない。でも、警察にだって連れて行くことが出来ない。この子の親はきっと繰り返す。どうしようかと戸惑う。この子を預ける当てなんてない。
「もしかしたらと思ったら、ここに居たのか」
声がして振り返る。聞き覚えのある低音、妻の兄、俺の義兄。終わらせる前に見つかる可能性もあった。でもそれは警察であって欲しいと思っていた。最悪獄中死も考えていたが、会いたくなかったのは彼女の家族だ。どんな顔をして会えばいいのか分からない。怨んでくれるのならまだいい、怖いのは同情されること。自分の家族を殺されたのに犯人に同情してしまうなど、あまりにも憐れだ。何を言えばいいのかもわからずにただ立ち尽くす。
「うちに来い、妹のことは…妹は、自分で命を絶った、と」
「止めて下さい!!やったのは俺です!俺なんです!」
声を張り上げる、いちばん怖いことは許されてしまうこと。信じて任せた相手が、大切な人を奪ったというのに。許さないでほしい、どうしておまえなんかに任せてしまったのだ。おまえが死ねばよかったのにと責められて当然なのに。
「妹が君に押し付けた。君がやらずともあの状態ならおれもそうしていたさ」
嘘だ。この義理の兄がそんなことするはずがない。心優しいこの人がそんなこと出来るはずがない。項垂れる俺の手に温もりを感じた。隣を見る。子どもだ、小さなこどもの手が俺の手を柔らかく包んでいた。俺はゆっくりと深呼吸をした
「その子は?」
不思議そうな顔をして義兄さんが子どもを見る。
「この子は、旅の連れで………そう、だな。うん。義兄さんに聞いてもらいたい話があるんだ」
ここで押し問答しても仕方がない、この子のこともある。俺はこの子を道連れにする気はさらさらない。頼みの綱もない。この義兄は信頼に足りる人物だ。
「そうか。うん。ふたりともうちに来なさい」
どこかほっとした口調で義兄は言った。どんな理由であれ俺が生きる理由になればいいと考えたのだろう。


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